植民地時代②

 

 1862年、フランスは第一次サイゴン条約を嗣徳帝政府に締結させ、メコンデルタの東部三省割譲やキリスト教布教の自由、賠償金2000万フランの支払いなど12条の内容を認めさせた。そうして、本格的なヴェトナムの植民地化を開始した。

 

 もともとフランスはカトリック布教や通商の自由の為に行動を起こしたが、真の目的は中国への通路であった。そのため1863年、メコン川を遡って中国に達することを意図し、カンボジアを保護国とする。

 

 しかしカンボジアで反乱が続発し、これを鎮圧するのにメコンデルタ西部三省がヴェトナム川に属していることがフランスにとっては不利益であった。1867年にはメコンデルタの西部三省も占領し、フランスの直轄植民地コーチシナが形成された。

 

 フランスはコーチシナを植民地化すると、かねて考えていたようにメコン川を遡って中国に達する通商ルート開拓を企てた。しかし調査団が中国まで航行した結果、急流や岩礁が多く、メコン経由で雲南に達することは困難であることが判明した。むしろヴェトナム北部トンキンから紅河を通る方が有利なのではないかと考えたのである。

 

 当時、トンキンでは阮朝の権威が失墜し、反乱が頻発していた。

 1873年、フランス商人ジャン・デュピュイが紅河経由で雲南に到着し武器弾薬の取引を行ったことに対し、阮朝政府は厳重に抗議し紅河航行禁止を要求した。かねてよりトンキン征服を狙っていたフランス側はこれを機に200名の兵を派遣して紅河開放をヴェトナムに迫った。

 

 ガルニエ大尉率いるフランス軍はすぐさま軍事行動を展開しトンキン・デルタの主要都市を占領したが、阮朝の要請を受けた劉永福の黒旗軍(太平天国の流れを汲む華人武装集団)によって打ち破られた。

 

 普仏戦争後の処理に追われていたフランス本国はトンキンの征服中止を命令し、占領したトンキンの諸都市を返還した。そして1874年3月、第二次サイゴン条約を締結し、フランスはヴェトナムの主権及び独立を承認、第一次サイゴン条約による賠償金未払い額の免除などが約束された。ヴェトナムはコーチシナにおけるフランスの主権を認め、クイニョン、ハイフォン、ハノイの諸港および紅河を通商の為に開くことに同意した。

 

 しかしフランス側としては一時的に植民地拡大を停止しただけであり、その後も機会を狙っていた。これに対し阮朝は清朝に援助を求めた。トンキンでは黒旗軍や匪賊が跋扈し、しばしばフランス人が襲われ、キリスト教徒も迫害された。清国はヴェトナムを保護していると主張し、派遣していた軍の撤退を拒否した。

 

 1881年末、雲南へ向かって紅河を航行していたフランス人旅行者二人が黒旗軍に阻止された際、フランスはこれを口実にリヴィエール海軍大佐率いる300名の兵をトンキンに派遣した。リヴィエールは突然ハノイ城を攻撃し、ハノイを占領した。

 

 嗣徳帝に救援を求められた清朝は、トンキン諸省に軍を進駐させ、劉永福の黒旗軍もリヴィエールのフランス軍と戦った。フランスは750名を増派し、1883年5月、リヴィエールが戦死するとフランスの国内世論は過熱、さらに巨額の軍事費と強力な遠征軍派遣が実現することとなった。

 

 フランスの大規模な攻撃とともに、1883年7月に嗣徳帝が病死し、混乱と動揺を極めた阮朝政府はフランスに降伏せざるを得なかった。こうして1883年8月、仮条約として第一次フエ条約(フランスの駐在文官の名前をとってアルマン条約とも呼ばれる)が締結された。

 

 第一次フエ条約ではヴェトナムをフランスの保護国とすることが承認された。北部トンキンはフランス理事長官の監督下に置き、中部アンナンは対外関係、関税、土木以外は従来通り阮朝政府が統治できることになった。

 

 1884年6月、第二次フエ条約(駐清フランス公使の名前をとってパトノートル条約とも呼ばれる)が締結され、第一次フエ条約の内容が確認されるとともに、ヴェトナムはフランスの支配下に置かれることが確定した。

  

 

 

 

 

参考文献

石井米雄・桜井由躬雄編『東南アジア史Ⅰ』山川出版社、1999

小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』中央公論新社、1997 

古田元夫『ベトナムの基礎知識』めこん、2017

松本信広『ベトナム民族小史』岩波書店、1969 

Brocheux, Pierre、Heemry, Daniel、Indochina,University of California Press, 2009

  

 

 

    著書