日本による南部仏印進駐

 

 1940年、日本をめぐる国際情勢は厳しさを増し、こうした中で南進への声が改めて高まってきた。1941年6月に独ソ戦が始まり、北進論と南進論の論議が沸騰したが、どちらにしても南部仏印進駐は既定路線となっていた。

 

 北進を選んだとしても、英米圏からの物資供給ルートは細まるだろうから、そのためにも仏印・タイを抑えておく必要があった。また、仏印・タイが英米の手に落ちるかもしれないことも危惧されていた。

 

 当時、陸海軍の大勢は南部仏印進駐は対米戦を誘発しないとの立場に立っていた。しかし残された文書のいくつかを見ると、アメリカからの全面禁輸をもって報復されることをある程度予期する見方も存在していた。

 

 7月14日、日本はフランス側に仏印の共同防衛を目的とする軍事協力や、必要数の日本陸海空軍部隊の南部仏印への派遣等の要求が書かれた覚書を渡し、19日までの回答を迫る。

 

 21日、フランスは日本側に正式回答を行い、日本側の直接行動を避けるため提案を受諾した。

 

 そうして、日本軍は25日に海南島を出港、7月28、29日の両日にわたり南部仏印のナトランおよびサンジャックに上陸して「平和進駐」を行った。

 

 これに対し、アメリカ、イギリスは26日、オランダは27日に資産凍結、8月1日には石油禁輸を行って報復した。

 

 

 

参考文献

長岡新次郎「第一編 南方施策の外交的展開」『太平洋戦争への道6 南方進出』朝日新聞社、1987

秦郁彦「第二編 仏印進駐と軍の南進政策」『太平洋戦争への道6 南方進出』朝日新聞社、1987

 

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