キリスト教宣教②

 

 パリ外国宣教会(MEP)が勢力を拡大したインドシナだが、イエズス会の現地人聖職者と信者の一部に、MEPに対する反発を示す者もいた。

 

 1689年、フランスのルイ14世と対立していた教皇インノケンティウス11世はイエズス会のトンキンへの復帰を宣言。

 

 一方、1693年にMEPの宣教師は、イエズス会信者の間で実践されていた祖先祭祀などの儀礼を「異端」として教皇庁に異議申し立てをした。

 

 インドシナのカトリック覇権を争ってイエズス会とMEPが対立を深めていたのである。

 

 とはいえ、布教先の文化や風習を取り入れすぎるイエズス会の適応主義については、ドミニコ会やフランシスコ会がすでに抗議を行っていた。同じことは中国やインドでも起こっている。いわゆる典礼問題・典礼論争である。

 

 ヴァチカンはイエズス会の立場を否定する回勅を発し、イエズス会の中国への入国とイエズス会への新規入会を禁止した。また、1773年に教皇クレメンス14世は勅書によりイエズス会を解散させた。

 

 1802年、トンキンで最後のイエズス会士であったカルネイロが老衰で死去し、イエズス会によるトンキン宣教は幕を閉じる。

 

 

 

 

 ピニョー・ド・ベーヌがMEPの宣教師としてコーチシナに派遣された1765年とは、そのような時代であった。

 

 1771年、広南阮氏の圧政に対して西山阮氏が反乱を起こすと、広南阮氏を破り1774年にフエを占拠した。そして1776年、西山阮氏は南部の中枢であるジャディンに入り、広南阮氏を打ち負かしたのである。

 

 この時、生き残った広南阮氏の阮福暎(グエン・フック・アイン)はカンボジアに避難する。そこで、1776年か77年、同じく戦乱を避けてきたピニョー・ド・ベーヌに会う。

 

 1783年、阮福暎はシャムに軍事援助を要請し、2万人のシャム兵と共に反攻を試みるが、撃破される。この頃、カルカッタのイギリス人、バタビアのオランダ人、マカオのポルトガル人などが阮福暎に軍事援助を申し入れたという。しかし、阮福暎が援助を求めたのはフランスであった。

 

 

 1783年、阮福暎がシャムでベーヌに会う。ベーヌはフランスに援助を求めるように阮福暎を説得し、阮福暎はそれを聞き入れた。

 

 ベーヌは阮福暎の5歳の息子、阮福景(グエン・フック・カイン)を連れてフランスに戻り、阮福暎の支援のため軍隊を派遣するよう工作する。しかし、最終的にはこの工作は失敗し、フランスによる軍事援助は実行されなかった。

 

 1789年、ベーヌは仏領インドのフランス人商人の財政援助を得て、二隻の船と武器弾薬、359名の志願兵を組織し、ヴェトナムに戻った。その後、1799年に死去するまでの10年間、ベーヌは阮福暎の政治顧問・軍事顧問として援助した。

 

 ヴェトナム史研究においては、ベーヌの支援が阮福暎による西山阮氏の撃破と阮朝創設に重大な貢献をなしたとする立場と、貢献度はそれほど決定的ではないとする立場がある。

 

 

 

 

 

参考文献

小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中央公論新社、1997

坪井善明「ヴェトナムにおける宣教師の役割」『社会科学ジャーナル』25(2)、国際基督教大学社会科学研究所編、1987

牧野元紀『18世紀以前のパリ外国宣教会とベトナム北部宣教』富士ゼロックス小林節太郎記念基金、2009

松本信広『ベトナム民族小史』岩波書店、1969

 

 

 

 

 

 

    著書