王朝時代②
李朝、陳朝、胡朝と400年ほどが経ち、ヴェトナムは再び中国の明朝の支配下に置かれるが、15世紀に独立戦争に勝利し、黎朝が成立する。
しかし強盛を誇った黎朝も16世紀になると指導力を欠くようになり、実権を臣下の莫氏に掌握されるようになる。1527年、軍事を握っていた莫登庸(マク・ダンズン)が帝を称して政権を奪取し、莫朝を開いた。
1592年、鄭氏が莫氏を駆逐する。
鄭氏は明の承認をもらうために黎朝の子孫を皇帝にかつぎあげ、実権は自身が握った。
一方、鄭氏が莫氏と闘っていた頃に、鄭氏の命令で中部のフエに駐屯していた阮氏は1600年頃から勝手に自分の勢力拡大をはかり、鄭氏から独立的に振舞うようになった。鄭氏への納税も拒否したことから両者の間に戦争が起こり、1672年までの間に7回の戦闘を展開した。
このように、北部の鄭氏勢力と、南部の阮氏勢力(これを広南阮氏という)の分裂状況が1世紀余り続く。
*広南阮(クァンナムグエン)
南北分裂状況に終止符を打ったのは、西山(タイソン)で広南阮氏の圧政に対して起きた反乱がきっかけであった。
1771年に起きたこの反乱は、阮岳(グエン・ニャック)、阮恵(グエン・フエ)、阮呂(グエン・リュ)の三兄弟によって率いられた。この勢力のことを西山阮氏という。
*西山阮(タイソングエン)
西山阮氏は北部の鄭氏勢力と、南部の広南阮氏勢力に勝利した。
1787年、阮岳は皇帝を名乗り、クイニョンに居を構えた。阮恵にはフエを中心に統治させ、阮呂にはジャディンを支配させた。
黎朝の末裔の昭統帝が清国に救いを求め、これに応えた乾隆帝が清軍をヴェトナムに送った。
阮恵は報告を受けると激しく怒り、1788年、自ら帝王を名乗り、年号を光中(クァンチュン)と改めた。
阮恵軍は清軍を壊滅させた。
だが清国といちはやく関係を正常化した。兄の阮岳と対立関係が始まっていたため、なるべく早く状況を片付けておきたかったのである。1789年、阮恵は清朝に帰順を表明し乾隆帝から安南国王に封ぜられた。
一方、広南阮氏の阮福暎(グエン・フックアイン)はシャム(タイ)とフランスに支援を求め、シャムの援軍を得て権力奪回を狙った。そして1802年にハノイを陥落させ、西山阮朝は短い治世を終えるのである。
阮福暎は阮朝を開いた。
清国に朝貢するとともに国号を「越南」とし、ここに、現在のヴェトナムに相当する領土を保有する統一王朝が成立した。
参考文献
石井米雄・桜井由躬雄編『東南アジア史Ⅰ』山川出版社、1999
石井米雄他監修『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008
今井昭夫・岩井美佐紀編『現代ベトナムを知るための60章』明石書店、2004
小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』中央公論新社、1997
桐山昇他編『東南アジアの歴史』有斐閣、2003