日本による仏印進駐①

 

 「北進」「南進」といった発想は明治末期以来、日本で抱かれてきた方向性である。しかし現実的な政策として取り上げられるようになったのは、1935、36年頃のことであった。

 

 1936年8月、広田内閣で決定された『国策の基準』では、大陸政策の展開(北進)と南方海洋への進出(南進)を並列していた。伝統的に、陸軍が北進、海軍が南進を主張する傾向にあった。

 

 1939年にヨーロッパで大戦が勃発すると、南進論は日中戦争の一環から離れる。ヨーロッパの戦況によっては、日本が東南アジアの支配権を獲得できると考えられたのである。

 

 実際、ドイツの快進撃によってイギリスやフランスが劣勢になると、日本はこれを好機ととらえた。①援蒋勢力の最大の担い手であるイギリスの脱落で、日中戦争が解決に向かうかもしれないと考えたことと、②東南アジア地域への進出を容易にさせると考えたためである。

 

 1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、陸軍ではいよいよ仏印進出論が有力化していった。この時期、日本はフランスに対し、仏印経由援蒋ルートの閉鎖の約束を取り付け、西原一策少将を団長とする援蔣ルート遮断監視団を派遣した。

 ただし西原の事実上の使命は、仏印当局に対し日本軍の領内通過と軍事基地の提供を交渉することにあった。

 

 またこの頃、中国の南寧に駐留する第二十二軍の一部が仏印国境に移動するよう指導された。もともと南寧は援蒋ルート遮断のために占領したが、中国側はすぐに別のルートを開拓したので、持て余された状態になっていたのである。そこで、第五師団を仏印経由で撤退させることにした。

 

 

 日本国内では米内光政内閣がヨーロッパの戦争への不介入を掲げていたため強硬派の不満の種になり、40年7月22日、陸軍の工作によって倒された。次の近衛文麿内閣は陸軍の意向を強く反映したものとなり、公表された「基本国策要綱」「時局処理要綱」は南進の方向性が色濃く示されたものであった。

 

 

 仏印での交渉は、東京における松岡外相とアンリ仏大使の会談に移された。交渉の末、8月30日に松岡・アンリ協定が成立し、地域や条件を限定したうえで日本の軍事要求が認められた。

 

 引き続き、西原少将とドクー総督との間で現地交渉が再開され、9月4日に西原少将とマルタン仏印陸軍司令官によって協定(「日仏軍事協定成立のための基礎事項」)に署名がなされた。

 しかしながら、仏印国境近くに駐留していた第五師団の大隊が偵察の途中で越境してしまい、「基礎事項」の項目に基づいて現地交渉は一旦中止となる。

 

 

 

 

参考文献

秦郁彦「第二編 仏印進駐と軍の南進政策」『太平洋戦争への道6 南方進出』朝日新聞社、1987

 

 

 

 

    著書