ラオス略史①

 

 

 ラオ族初の統一王国、ランサン王国がファーグム王によって建国されたのは1353年のことである。それ以前の歴史については詳しくわかっていない。

 

 ランサン王国は交易により栄えたが、王位継承争いやヴェトナム、シャム(現在のタイ)の介入などもあり、1707年にルパンパバーン王国、ヴィエンチャン王国に分裂、1713年にはチャンパーサック王国も建国され、最終的に3つに分裂した。

 

 3王国はシャムの支配下に置かれた。

 

 19世紀半ば以降、ヴェトナムとカンボジアを植民地にしたフランスはラオスの植民地化も進める。1886年にルアンパバーンに副領事官を設置することをシャムに認めさせた。

 

 1893年、フランスはシャムに対して、メコン川左岸の領有を迫る。シャムはラオスへの宗主権の放棄を拒絶したが、フランス人官僚が殺された事件を口実にフランスは砲艦三隻をチャオプラヤ川に進出させ、1893年、フランス・シャム条約を締結してメコン川東岸をフランスの保護領とした。さらに1899年には、フランスは現在のラオスにあたる地域をラオ族の複数形である「ラオス」と名付け、仏領インドシナ連邦に編入した。

 

 1940年6月、ナチス・ドイツのフランス侵攻によりパリ陥落、ヴィシー政権誕生。同月、タイは1904年と1907年にフランスに割譲されていた領土の返還を求め、12月にラオスを攻撃。インドシナに軍隊を駐留させていた日本が介入・調停し、1941年5月9日、東京条約が調印される。タイが求めていた通り、ラオスのメコン川西岸、カンボジアのバッタンバンとシェムリアップがタイに引き渡された。

 

 1941年8月、フランスはルアンパバーン王国と保護条約を締結し、王国の法的地位を確約した。宮廷会議を内閣に改編し、副王の家系であるペッサーラートを首相に就任させる。

 

 フランスは、タイの大タイ主義や日本軍の進駐に対抗して「ラオス刷新運動」を展開、ラオス人エリートの育成を目指す。これらは、タイからラオスを守っているのはフランスであるとアピールし、自分たちの地位を高める目的であった。しかしこうした政策が、ラオス人のナショナリズムを目覚めさせることにつながった。

 

 

 

参考文献

青山利勝『ラオス』中央公論新社、1995

飯島明子「第6章 植民地下の「ラオス」」『東南アジア史Ⅰ』山川出版社、1999

小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』中央公論新社、1997

スチュアート‐フォックス,マーチン(菊池陽子訳)『ラオス史』めこん、2010

山田紀彦『アジアの基礎知識5 ラオスの基礎知識』めこん、2018

 

 

    著書