ラオス略史②

 

 1944年、パリが解放されヴィシー政権が崩壊、日本もフィリピンでの戦いに敗れ、連合国がインドシナに上陸する可能性が高まった。日本は1945年3月9日、それまで日仏二重支配の状態にあったインドシナからフランスを追い出し単独支配するために、フランス軍の武装解除とフランス政庁などの接収を行った(明号作戦)。

 

 日本は3月11日にバオ・ダイにヴェトナム帝国、3月12日にシハヌークにカンボジア王国、4月8日にシーサワーンウォンにルアンパバーン王国の独立をそれぞれ宣言させた。

 

 1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し降伏すると、それまで水面下で活動していた独立運動が表面化する。これらの運動はラオ・イサラ(自由ラオス)運動と呼ばれるようになる。ラオ・イサラ運動は、各地で独立運動を行っていたグループの総称で、中心人物はルアンパバーン王国の首相だったペッサラートである。

 

 一方、シーサワーンウォンは、日本に強制された独立宣言は無効であると廃棄し、フランスの復帰を歓迎した。8月30日にフランス保護権の継続を宣言した。

 

 ラオ・イサラは1945年10月12日にラオス臨時人民政府を樹立し、暫定憲法を採択、それまでのフランスとの条約の無効を宣言した。

 

 しかしながらラオ・イサラの独立は中国国民党とヴェトミンという基盤に頼っていたため、不安定なものであった。

 

 1946年3月6日、ヴェトナムのホー・チ・ミンとフランス政府との間にヴェトナム・フランス暫定協定が結ばれ、ヴェトナムにおける停戦が延長された。また中国軍撤退の協定が結ばれた。これによりラオ・イサラは弱体化し、4月24日にヴィエンチャンが、5月中旬にルアンパバーンがフランス軍に再占領されることになる。

 

 4月、ラオ・イサラ政府はタイへ亡命した。

 

 8月、フランスはルアンパバーン国王シーサワーンウォンとの間に暫定協定を結び、ラオスの統一、立憲君主国となること、フランス連合内に留まることなどが取り決められた。ここで新たなラオス王国が誕生した。とはいえ、フランスが国防、外交だけでなく、関、郵政、気象情報、鉱物資源に至るまで様々なことを掌握しており、以前のインドシナ連邦の行政機構は実質的に維持されていた。

 

 

 1949年7月にはフランス・ラオス独立協定が締結され、ラオスはフランス連合内で条件付きで独立を付与される。しかしこの時点でも、金融と関税はインドシナ全域対象の協定が有効となっており、国防、外交、司法に関しても主権は制限されたままであった。

 

 これを受けて、ラオ・イサラの穏健派は条件付き独立を容認したが、急進派完全独立を求め、分裂し、10月24日にラオ・イサラ亡命政府は解散を宣言する。急進派はヴェトミンに接近し同盟を結んだ。

 

 急進派としてヴェトナムにわたったグループには、後に国家主席となるスパーヌウォンがいる。一方、穏健派としてヴィエンチャンに戻ったグループの中には、後に王国政府首相となるスワンナプーマーがいる。ペッサラートはフランスとの妥協もヴェトミンとの連合も拒否し、バンコクに残った。

 

 スワンナプーマーはペッサラートの弟で、スパーヌウォンは異母弟である。スワンナプーマーの妻はフランス人で、常に親フランスであったのに対し、スパーヌウォンの妻はヴェトミン支持のヴェトナム人であった。まさに小国ラオスという国の運命を象徴するかのようであった。

 

 

 

参考文献

飯島明子「第6章 植民地下の「ラオス」」『東南アジア史Ⅰ』山川出版社、1999

スチュアート‐フォックス,マーチン(菊池陽子訳)『ラオス史』めこん、2010

山田紀彦『アジアの基礎知識5 ラオスの基礎知識』めこん、2018

ラオス文化研究所編『ラオス概説』めこん、2015

 

 

    著書