ラオス略史③

 

 1949年7月にラオスの条件付き独立が認められると、バンコクに亡命していたラオ・イサラのうち、スワンナプーマーなどの穏健派はラオスに帰国し、新しい国の国家建設に参加した。彼らがスムーズに行政に入り込むことができたのは、高等教育を受けた人材がラオスで不足していたということが背景にあった。

 

 一方、スパーヌウォンなど完全独立を目指すラオ・イサラのグループはヴェトナムに渡り、ヴェトミンと協力した。

 

 1950年8月、ヴェトミン解放区で第一回ラオ・イサラ全国大会が開催され、スパーヌウォンを議長とするネオ・ラオ・イサラ(ラオス自由戦線)と抗戦政府が樹立された。これらの革命・解放勢力はパテート・ラオと呼ばれるようになる。

 

 1953年10月、フランスはラオス王国政府とフランス・ラオス連合友好条約を締結し、ラオスの完全独立を認めた。ただしラオスはフランス連合内にとどまるという内容だったため、パテート・ラオは闘争を継続した。この間、山岳地帯を中心に影響力を拡大していた。

 

 1954年5月7日、フランスはディエンビエンフーの戦いにてヴェトミンに敗北する。

 

 1954年7月、インドシナ戦争の終結について討議されたジュネーヴ会議でラオスに関する協定が締結される。会談にラオスから参加が認められたのは王国政府のみで、パテート・ラオは認められなかったが、ファン・バン・ドン率いるヴェトナム民主共和国(北ベトナム)代表団の中にパテート・ラオの代表2人も含まれていた。

 

 ジュネーヴ協定では、ラオスから外国軍が撤退すること、パテート・ラオにはポンサーリーとフアパンが武装解除のための一時的な再結集地として与えられることなどが取り決められた。パテート・ラオは結局その2県を拠点として闘争を継続した。

 

 1957年11月、長い戦闘と交渉の末、ようやくラオス王国政府とパテート・ラオが共同声明を出し、第一次連合政府が樹立された。

 

 しかしながらこの連合は8か月しか続かなかった。

 

 

参考文献

 

スチュアート‐フォックス,マーチン(菊池陽子訳)『ラオス史』めこん、2010

山田紀彦『アジアの基礎知識5 ラオスの基礎知識』めこん、2018

 

 

 

 

 

    著書