タイ外国特派員クラブ

 

 

 第二次世界大戦後、タイに進駐していた日本軍が撤退すると、この地を東南アジアにおける新たな国際貿易と外交の拠点だと認識した報道記者たちがバンコクに押し寄せてきた。その当時、外国人ジャーナリストたちのたまり場となっていたのがラタナコーシン・ホテル(現・ロイヤル・ラタナコーシン・ホテル)である。

 

 常連客だったバンコク・ポスト創立者のアレクサンダー・マクドナルドと、アメリカ合衆国情報局(USIS)の中国語編集者をしていたアレックス・ウー(後にPANA通信社バンコクの支局長となる)、そしてUP通信支局長のプラソン・ウィタヤらの3人が自分たちで「シルバー・パーム(Silver Palm)」という名前のバーをスラウォン通りにオープンしたのは1953年のことである。このクラブは海外からの特派員だけでなくビジネスマンや外交官などに人気のたまり場となった。

 

 3年後、シルバー・パームは閉店した。そして常連客の一人で、1953年にAP通信の最初のバンコク支局長になったアメリカ人、ジョージ・オルジベが中心となり、正式にタイ外国特派員クラブ(FCCT : Foreign Correspondents Club of Thailand)の設立が決定された。オルジベは第二次大戦の直後にアメリカ戦時情報局(OWI)の仕事でタイに赴任し、USISの立ち上げを行った人物である。

 

 オルジベの回想録によると、USISの情報を現地語で発信するために雇ったスタッフのうちに、中国語編集者のアレックス・ウーと、タイ語編集者のプラソン・ウィタヤがいた。シルバー・パームを開店した3人のうちの2人である。この2人はFCCT立ち上げの主要メンバーでもある。

 

 シルバー・パームの3人のうちのもう一人、アレクサンダー・マクドナルドはFCCTが実現する前の1955年に国外追放になってしまった。彼はもともとCIAの前身であるOSSOffice of Strategic Services)のタイでの責任者をしていて、1946年にタイで戦後初めての日刊英字紙バンコク・ポストを設立した人物である。ちなみに同じくタイのOSS出身で後に有名人になった人物に、シルク王として知られるジム・トンプソンがいる。

 

 バンコク・ポストのライバル紙であった英字紙バンコク・ワールドを1950年代後半に立ち上げたダレル・ベリガンの方が、FCCTにおいて大きな役割を果たした。ベリガンも戦時中は諜報に従事していた背景を持ち、タイの要人とも強いコネクションを持っていたという。

 

オルジベがFCCTの最初の場所として選んだのは、日本式ステーキハウス「ミズ・キッチン」であった。パッポン通りにあったミズ・キッチンは現地在住の日本人なら知らない人はいないほど著名な日本料理店で、日本人旅行者にも人気の店である。看板メニューとしてサバ・ステーキとサリカ(ビーフ)・ステーキが有名で、客がインターネット上に掲載した写真などを見ると、海部俊樹や中曽根康弘などのサインも飾られていたようだ。

 

しかしミズ・キッチンは、2019327日に閉店した。1957年に開業したとのことであるから、オルジベらがFCCTを構えたのはちょうどミズ・キッチンがオープンしたての頃だったのだろう。オルジベらはFCCTを、ジャーナリストたちが集う場所としてだけでなく、タイやアジアにおけるメディアの権利を守り、促進するための組織として構想した。

 

FCCTの初代会長は1956年にプラソン・ウィタヤが務め、57年はダレル・ベリガン、58年にはアレックス・ウーが務めている。なおこの時のアレックス・ウーの所属先は「PAN ASIA NEWS AGENCY」となっており、つまり私が研究しているPANA通信社である。

 

 

 1970年代までFCCTはミズ・キッチン内にあったが、オリエンタル・ホテルが川沿いの庭にあるラウンジの一つを提供してくれるようになってからはそちらに移った。1970年代に起こったサイゴン、プノンペン、ヴィエンチャンの陥落や共産主義者の動きを受けて、インドシナの戦争を取材していた多くのヴェテラン・ジャーナリストたちがバンコクへ移り、そこを拠点として引き続き東南アジアの情勢を報道し続け、FCCTはいつになく活況となった。

 

 オリエンタル・ホテルがFCCTのラウンジがある場所に新館を建設すると決めてからは、モンティエン・ホテル、プレジデント・ホテル、オリエンタル・プラザを転々とし、1985年にデュシタニに落ち着いてから12年近くそこを所在地とすることになる。その後、シーロム通りにあるジュエリー・トレード・センターの12階、そして1997年にプルンチット通りのマニヤ・センター最上階に移り、現在に至る。

    著書