夕刊紙『新関西』へ入社

 

宮城 その龍谷大学っていうのは、別に社会にそんなに目を向かしてくれたわけではなかったんやけれども、たまたまそういう多くの仲間がいて。それから写真部だとか書道部だとか、いろんなクラブ活動に入った中で写真部の仲間が、「おれは新聞記者になる」、「おれはカメラマンになる」っていうようなのがおって。僕もどっちみち聖護院っていうか、山伏の世界に入らなならんのやから、お寺に入る前にはどこかをしっかり見ておきたいというふうに思うようになって。それで新聞社へ入ろうと。社会に触れるっていったら、新聞社か、僕が受けたんはその当時すでに交通公社があった。昭和29年ですからね。それと放送局と。で、放送局も交通公社ももちろん落ちました。それで新聞社へ入ったんは多少のコネを使って。

 

岩間 ああ、そうなんですか。

 

宮城 うん。それで、『新関西』という夕刊紙に入った。毎日新聞社系の夕刊ですね。おやじは、「2年やぞ」と言ってね。そこが面白かったさかいに足かけ4年行ったんやけどね。

 新聞社入ったときに、僕はやっぱり国文学卒業ということで、いきなり放り込まれたところは校閲部やったんだ。

 

酒井 校閲?

 

宮城 うん。校閲っていうのは、原稿が書かれて送られてくると、その原稿が整理部へ回って、整理部ではそれを添削して見出しをつけて、製版、組版屋のほうへ。今みたいにコンピュータで打つんとは違うのやからね。活字を1字1字拾うんやからね。逆さになった活字を。それを拾ったら、その今拾った活字を一つの形にしてキューッとひもで巻いて、逆向けにやって、そこの上に墨塗って、ギャーッと刷った紙が出てくると、原稿が活字になってくるわけや。それを、もう早いことやるわけなんやけどね。本当にもう驚くような早さで出てくる。それの中に間違いがあるかないかを調べるのが校閲部やったんや。

 筆を持たされて、そして朱の筆で、抜けている文字、間違っている文字、今で言うたらコンピュータ、ワードの変換間違いみたいなな。それを調べてね。で、文章的におかしければ、編集、整理部のほうでこしらえた文章やけれども、ちょっと文章がおかしなと思うなら、そこんとこにも意見をつけてパッとまた戻すんよ。それを、また印刷局のほうに回って整理されて、直されて、また戻ってくる。それにオーケーのサインを入れて、また戻す。そういうのがずーっと集まって、紙型(しけい)っていう紙、その型をバーンと抑えて、それが鉛に取られて、マイナスの紙型ができて、プラスの鉛の版ができて、それが輪転機にかかって印刷される、という中の一部分やったんや。

 校閲におったときには、よう部長にしごかれたわ。「おまえは、大学を卒業して国文やいうのに、字知らんなあ」とかね。「何や、龍谷大学ていうのは、こんな程度か」とかね。やってるときは、そんなこと言うとらへんで、「もう、はよ直せ、はよ直せ」やからな。締め切りが済んで輪転が回り出したときに、「あのなあ、宮城、おまえはっち」って言われた。「はっち」って言われてもしょうがないな。もう、たたかれどうしやった。

 ところが、ここへ帰ってきて、ここから出している機関誌を編集をするようになって、それが役に立つんやね。やっぱり。

 

酒井 はい。

 

宮城 それから、今でも出している雑誌、これは編集は他のほうでやってるけど、僕は相変わらず校閲をするわけや。誰よりも早く読むし、誰よりも早く間違いの文字を見付けるわけよ。今は変換間違いっていうのが非常に多い。一応、僕の目を通ってない原稿は時々ミスがある。僕の目を通った原稿はほぼ間違いがないね。

 

岩間 その時の体験が生きてるんですね。

 

宮城 生きてるんですよね。でも、新聞社、それが校閲っていうのは、結局、原稿が送られて、それが印刷されて新聞になるまでのことを学ばすだけのことやさかいに、そこでやったんは、7か月かな、8か月かな、そんなもんやったわ。

 話、元へ戻るけども、そこへ勤めたんは普通4月から入るやろ。僕、3月からもう勤務しとったんや。卒業式よりも前に。そしたら卒業式の前に、また中学と一緒や、「体育の単位が足らんで」って言ってきて。「2単位足らん」と学校から呼び出しを食ろうてな。吉岡っちゅう、京女のほうの体育と両方やっとった先生やったわ。「おまえ、2単位足らん。このままやったら卒業できへんぞ」って言われて、「ああ、そうでっか」言うて。学科を出すのを忘れたんやな。だから、「何か出せよ。おまえ、新聞社もう行ってるんやったら、ええ新聞の写真があるやろ」と。「スポーツに関する写真を1枚出せ。それにコメント付けろ。それ出さなあかん」と。えらかったなあ。

 それで、今カメラマンになっている井上博道。奈良で入江泰吉の後を継ぐと言われている。もう大家になっとるわ(※201212月に事故で亡くなった)。僕が写真部の部長で、彼が副部長やった。彼は、本願寺新報へ入って、本願寺新報の写真やっとって、それ1年やった後に産経に入りよった。彼が本願寺新報におったときに、「これこれで、写真がないと卒業できへん。おまえ、何ぞいいのないか?」言うたら、「あるある」言うてね。キョート・アリーナ。今、もうないな。アイススケート場。

 

酒井 知らないです。

 

岩間 わたしも知らないです。

 

宮城 岡崎にアイススケート場があって。そのアイススケート場っていうのは、大きな体育館系のドームやろ。そしたら、そんなてっぺんには梁(はり)が通ってるやんか。その下でみんな滑っとるわけや。その梁の上に乗って、上から俯瞰(ふかん)して写真を撮りよったんが、ええシュプールが「ピューッ」て描かれてね。フィギュアのシュプールが。そこで1人が滑ってんのがあんのよ。彼はその頃から優秀やった。それをフラッシュなしで撮ってるんやわ。「これ、やるわ」言うてね。体育の2単位を、それでもろうてん。

 

酒井 すごい。2単位以上の価値がありそう。

 

岩間 それは、すごい斬新ですね。

 

宮城 恐らく、吉岡は、自分の写真のコレクションの中に入れよったと思うけどな。

 

酒井 へえ(笑)

 

宮城 それで龍大卒業したというわけ。それで、新聞社に入ってから、そのあと、報道部へ移されて。報道部は何でもやれるようにってんで、一番厳しい世界、つまりサツ回りね。サツ回りで持たされたのが、西成、浪速、天王寺、阿倍野、住吉、平野、東住吉やった。

 

酒井 うわー、一番……。

 

岩間 事件がありそう。

 

宮城 分かるやろ?

 

酒井 はい。

 

宮城 一番話題性の多いとこや。殊に、その頃の西成、浪速っていうのは、すさまじかったんよ。西成、浪速、天王寺だけで、もう書くこと何ぼでもあった。

 そこへやらされて、記者クラブに放り込まれて、他社のつわものの中で鍛えられて。そういう鍛えられる中であったのが、この前お話ししたかもしれんけど、やっぱり特ダネをとるっていう意識が出てきて。夕刊紙だから、大きな施設持ってへんからな。夜になったら帰ってくる新聞やし。そこでやったんが、通天閣の、あの話よ。地上103mへ、誰が一番乗りして上るのんかというような。そのときから、やっぱり山伏のDNAを受けとったんやろうと思うわ。あんな危険なこと、ようしたなと思うわ。デスクも、「知らんぞ。おまえが勝手に行くっていうことで許可するわ」ということやったんやね。「落ちんように行けよと」は言ったけども。写真部におったおかげで、カメラマンとチームが組めたし。そのあと、飛行機乗せてもろうたんも。社、飛行機持ってへん会社やさかいな。「飛行機貸りてくれ」と言ったし。その飛行機で、「大阪を一番低いとこで飛べ」と言って、飛行士と操縦士と押し問答して。1回めはほんまに低う飛んでくれよったんだけども、肝心の撮影ができなんだね。あれは泣きどこやったね。

 150mぐらいのところから80mぐらいまで降りてくのは、エンジンをずっと絞って降りてくでしょ。それで、こう立っているものを横から「ピュー」っと撮って写したら、瞬間的に通り過ぎますから、写せへんわけよ。この建物を中心にして、上の方から「ピュー」っと建物見ながら機体を傾けて、常に建物が窓の視野からこう見えるように、カメラマン、そこで狙うとるわけよ。「ピュー」とポイントへ降りてきて、ここんところで水平飛行に入るわけよ。水平飛行に入ったら、すぐボーンと上がらんならん。「この水平飛行に機首をポッと真っすぐに立て直して、その瞬間にエンジンをバーンとふかしますから、そのときが写し時でっせ」いうて言われたさかい、そのとおりカメラマン構えとったんよ。せやけど、やっぱり、地面がウオーと近づいてくると、「落ちる」という感じや、まさに。「低うで飛んでくれ」と言うた手前やけども。もう、しがみついとるという。それでもカメラマンは一応シャッター切っとった。でも、「あかんわ」言うてた。「入ってへんわ」言うて。帰ってから、社に戻って写したら半分しか入ってなかった、やっぱりね。

 で、「もう1ぺん飛んで」ちゅうたら、「もう2度めは、そんな低いところあきまへん」つって、それで、もう110mぐらいのところを飛んで。それで、まあ、撮れたんや。あれ100m以下で飛んでたらええ特ダネが撮れとるはずやわ。そら、空に通天閣は抜けとるし、空が写っとる下に民家がバーッと並ぶんやし。そんな写真ってめったにあらへんで。

 

酒井 ないです。

 

宮城 今やったらヘリコプターやさかいね。それでも、ヘリコプターでそんなふうに降りていったら逆に問題が起こるかもしれんな。セスナやさかいにできたんかもしれん。そんだけ低空飛行ができたんは。

 「人のやらへんことをやったらええのや」という意識やな。だから、人のやらへんこととっていうのはやっぱり大事だなと思うね。だが、それは人に対してご迷惑をかける場合もあるやろう。

 聖護院帰ってからも、つい6、7年前のことやけども、紀伊山地の参詣道が世界遺産になったわな。高野山行く道、吉野から本宮へ行く道、それから、伊勢から熊野へ行く道ね。全部、その道が参詣道になったときに僕が言い出したんは、聖護院の宮様時代のように京都から歩くっていうのはできひんけれども、吉野から同じように奥駈を全部通して縦走して本宮まで歩いて、本宮から宮様と同じように船に乗って新宮へ出て、新宮から那智山へ歩いて那智山から大雲取越、小雲取越を越えて、本宮へ戻ってくるということ。合計計算したら240キロになるわけや。日割りしてみたら大体13日間ね。「遺産記念として、その峰入りをせえへんか」と言った。「いや、僕は、もう行かへんけど」ってね。そしたら、若い者からブーイングが起こってね。「これから、あと1年の準備の中で、そんなできますかいな」と。「毎年歩いてるんやろ。毎年歩いている分に、あと1週間プラスしたらええのや。それができなんだらやな、聖護院やないで」っつって、本人行かへんもんやさかいに(笑)

 

酒井 いやいや、きっと先生、本人行きはっても、そう言うてはったと思う(笑)

 

宮城 それで、ハッパかけて。それで旗立てて。参加者募った。参加者が増えたんだ。前鬼までというのが、80何人で行った。前鬼を超えてから本宮までは、もう山小屋の関係があるさかいに、40人に絞って。みんな、よう歩いてくれたで、ほんま。僕は本宮でその歩き通した連中を迎えたわけやけど、もう泥んこやし、髭ぼうぼうやし、日に焼けて真っ黒けな顔しとるしね。そやけど、一つの大きな仕事を成し遂げたというのかな、山伏にしてみたら、奥駈のこんだけを、自分でも自分の体力の限界に挑んだと。目が輝いとったし。

 それから、大げさな表現で言えば、山の中でいきなりバッと、こんな山伏に出会うたら、現代ではじゃないですよ、昔の人は、「山の神に出会うた」という感じを持つんじゃないのかなと。異形の形、異形の神。ええ。だから、昔は、そういう意味での山の中で生きとった山伏に対する民衆の信仰というのが、信頼度というのが、こういったところにもあんのやなって実感として思い出すわ。人を引きつける魅力と、それから、目は光り、そういういでたちというのは近寄り難いという、昔の神様、山の人だよね。そういうふうなのは実感して。やっぱり、だから、やるいうことは大事だと思うたの。

 

酒井 はい。実行ですね。

 

宮城 うん、実行やと思うねん。だから、新聞社辞めたあとも、仏教会に入ったかて、頼めばやるというね。

 

 

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