宮城泰年師インタヴュー

20101113日 聖護院にて

 

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 日本とヴェトナムとの関わりにおいて、「仏教」は最も重要な絆の一つです。その仏教を通じて日本の仏教者たちはどのようにヴェトナム戦争と関わってきたのか。この点を考えるために今回、ヴェトナム戦争当時から南北ヴェトナムの支援活動に携わってこられた宮城泰年師にお話を伺いました。

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宮城泰年(聖護院門跡門主)

1931年、京都市生まれ。龍谷大学卒業後、新聞社に勤務し、後に聖護院に奉職。2007年、門主に就任。京都仏教会常務理事、京都府・京都市仏教会事務局長、日本宗教者平和協議会代表委員、宗教者九条の和代表世話人などを歴任し、龍谷大学文学部仏教学科で教鞭もとる。

 

参加者

酒井清旭:浄土真宗本願寺派僧侶

岩間優希:立命館大学ポストドクトラルフェロー(当時)

 

岩間 本日は、宮城さんが関わってこられたヴェトナム反戦運動についてお聞きしたいと思います。せっかくですので、大学時代や大阪での新聞記者経験などからお話いただけたら幸いです。

 

宮城 龍大に入ったのは、中学校を自分でおれなくしたような生活になってしまったし。入ったのは後になって何をしようかということやなしに、とにかく戦争の忌まわしい思い出から逃れるために龍大に入っただけのことや。予科1年おって予科はそのまま。2年のときに新制の1年になるんやけども。

 とにかく龍大入ってよかったと思うたんは、先生、いわゆる教授が僕らを対等に扱うということが分かって。大学生になった途端に。中学生では教師はどこまでたっても先生で、上からもの言いよった。ところが龍大入ったら「宮城君」と言って、「君」付けられたんやね。接し方というのは、そういうふうに1人1人を認めた。その当時の龍大生というのは、僕が1年で入った全員集めたかて200人そこそこやからな。先生はみんなの顔すぐに覚えれられるようなもんやろ。

 

酒井 そうですね。

 

宮城 それで、「そういう世界というのは、大人の世界やなあ」と。「これはここで、一応しっかりと勉強せないかんなあ」と思たんやけれども、勉強にならずに随分と遊んでしもうて、友達がたくさんできてしもうた。

 その次に、龍大というのは、なんと、ぼんぼんの集まりやなと思うたんやわ。たかだか200何人という同級生はほとんど浄土真宗のお寺の息子ばっかりだった。僕が入ったときに、「宮城、おまえ、寺どこや?」って言われた。「ここや。聖護院や」、「聖護院、何宗や?」、「山伏や。修験宗や」と言うたら、「雑行雑修やの」って言われたやん。「雑行雑修」って何のことや分からへんの。知ってる?

 

岩間 この前の講演で、ちょっと言ってらっしゃいましたね。

 

宮城 あ、そうか。うん。「雑行雑修やの」「あ、そう」って言って。それで家帰って、おやじに、「雑行雑修っていうのは何ちゅうねん?」って言ったら、「それはな、蓮如上人が言わはった言葉でな。いまだにそういうものの見方しとるんか」と、おやじが言った。雑行雑修を。しかし浄土真宗から言ったら、「なるほど、雑行雑修なんやな」と。もう、ひたむきに阿弥陀(あみだ)信仰に打ち込んではる世界から言うたら、知らんとこやから、「雑行雑修」って言われても、それは彼らからの立場から言うたらしゃあないやろうけれども。

 で、そこから「雑行雑修や」って言うた連中と仲良うなってね。仲良うなってよかった思ったんは、食い物が当たるようになって。当時、まだ、あんた、お米は配給やろ。

 

酒井 ああ、そうか。

 

宮城 全て、ほとんどのものが配給。塩も配給やろ。食糧管理されているわけやしね。昭和23年のことやもんな。

 

岩間 はい。

 

宮城 彼らは田舎のお寺から出てくるから仕送りがあるわけや。檀家(だんか)さんが多い。そしたら、「うちの若が、ご本山の学校へ行ってる」っていうことで、檀家さんが一生懸命応援してくれるわけやね。彼は裕福やった。僕みたいに、下駄はいて、がらがらと行ってるっていうようなのはおらへんし。アルバイトしているのなんかも、ほとんどおらんかったしね。

 龍谷大学の前には、大宮本校の入ったところのすぐ左側に、今、大宮の資料室みたいな小さなのがあるやろ。グッズなんか見せてる。

 

酒井 はい。あります。

 

宮城 あの場所の後ろ側に「典座室」っていうのがあったんや。「典座」いうのは、毎朝、本館の阿弥陀様に、お扉開けて、お光をあげて、お勤めの準備をする。もちろん、そこの掃除もする。そのお仕えする人間が、そこに生活をするの。それを、推薦なのか何か知らんけれども、学校側が選んだ浄土真宗のお寺の息子がそこにいる。で、僕らの仲間が1人、そこに入ったわけや。坂上君いうてな。ほいで、そこの典座室には、当然、浄土真宗の子がみんな集まってくるわけや。どういうことか、僕もいつの間にやらそこへ入るようになってね。そこへ行ったら、いろんなもんがあるんよ。お米はあるし。とにかく何か何か、その国からトウモロコシ送ってきてたり、ジャガイモ送ってきてたり。というようなことで、典座室で浄土真宗の仲間に一緒になって。それで、そういう中から、僕に興味を持たしてくれたのは、ヨットの操縦方法を教えてくれる子やとか。

 

岩間 へえ。

 

宮城 そのかわり、僕はその当時すでに自動車の免許を持っていたさかいに、一緒にドライブクラブ。その頃はレンタカーって言わへんのよね。ドライブクラブって言うて、貸し自動車屋があったんよ。すさまじい車、もう、どこで潰れてもいいような車を貸し出しとったけど、それに乗って走っていったり。とかいうようなことで、なおさら浄土真宗の人たちとのつき合いが増えていった。

 

酒井 ほう。

 

宮城 話はどーんと飛ぶけれども、やがて、龍谷大学に勤務することになった。それが済んだら、今のように客員教授になった。ずっと縁がつながっているというもとになるんやろうと思うんやわ。

 それだけじゃない。龍谷大学の幅も広くなって、「雑行雑修や」言うてたかて、仏教学の力が強くなってきた。真宗学だけではなしにね。でも、仏教学の教授の中に、僕らとの関係のつながった人ができてきていたっていうことがね。だから、人ってのは大事にしとかんなんな。大学っていうのはやっぱり仲間を作る、友達を作る。すぐに芽が出てくるものではないけれども、やがて芽が出てくる。その中には、去っていく者もあるし、新たな芽を持ってきてくれる者もあるし。いろんな人が出てくる。僕は大学っていうのはそういうとこやないのかなっていうようなことは、今でも思っているのね。

 龍谷大学では、僕は途中まで社会学を選んでたけども、僕にはちょっと合わない、という感じがしたので、国文学へ転科したんよ。そやから、龍谷大学は、予科1年おって、それから新制大学5年おったから、合計6年おったわけだ。その頃はよかったわ。入学したときの授業料が卒業までついてくるねん。同じ料金で。年々上がらへんのやわ。

 

岩間 なるほど。

 

宮城 分かる?卒業したときには、誰よりも安い授業料を払うとったわ。

 

 

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